1981年1月、鹿児島県鹿児島市で生まれる。一人っ子として可愛がられて育てられた。幼少期、欲しいものは比較的なんでも買ってもらえたため、欲しいものが手に入らないとストレスを感じるようになる。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、いまだにこういった傾向はある。1985年、辛島美登里や長渕剛、近年でいえば元AKB48の柏木由紀も通ったという唐湊幼稚園に入園。音楽に力を入れている幼稚園で、当時習ったことがDNAとしていまだ私に残っているようだ。自覚はないのだが。1987年、西紫原小学校入学。順風満帆な小学校生活を送るのかと思いきや、あともう少しで卒業という小6の5月に、父親の仕事の都合で転勤を余儀なくされる。1992年5月、北九州市小倉南区に引っ越し、志井小学校へ。中学受験で鹿児島に行こうと思いきやすべて不合格となり、そのまま地元の志徳中学校に通う。そこで親友の本多拓美君と出会い、ギターを触り始める。頭が良かったため、進学校である小倉高校に入学。本当はあまり高校に行きたくなかったが、「女子高生がいるから」を理由に受験。しかし当時の小倉高校に通う女子高生なんて…書きませんが…。その後、九州大学文学部を受験。自信があったもののなぜか不合格であったため、北九州予備校に通う。「努力は実る」をスローガンとする予備校で、1年も努力する気になれなかったので10月くらいから努力し始めて九大文学部に合格。大学入学と同時に、自分の才能を発揮できるものと考えて「劇団 二番目の庭」を立ち上げる。オリジナル作品を次々に発表。九大では地理学研究室に所属しながらモラトリアムを謳歌するも、「さすがに4年は長え。卒業してえ」と思い、4年できちんと卒業。なんか「ロックな生き方」とかうんちくたれてた先輩方が3年になると堅実なところに就職していくのを見て、「言ってることとやってることが逆!」と思いましたよね。それで俺はロックな生き方を選び、就職活動しませんでした。意味わからなかったので。
大学卒業後、家の近所にあった弁当に貼るシールとか作ってる印刷会社に面接を受けに行くも、なんか知らんけど落ち、5月末で家を引き払って地元の小倉に戻る。小倉では当時人気のあったカフェボンゴという飲食店で2年アルバイト。2003年に北九州芸術劇場という劇場ができ、演劇活動に勤しんでいた私はそこの事業にいくつか関わることに。2006年にはこの劇場の臨時職員になり、そのまま就職。いろいろあって、いろいろって主に悪口みたいになるんで書きませんけどいろいろあって、2012年に契約期限が切れるのを機に退職。2013年、北村功治と「合同会社kitaya505」を設立。その後いろいろたのしくやっていくうちに、演劇で発散していた「俺様の表現欲求」みたいなものがまったくなくなってしまった。まあでも仕事がたのしいならいいですよね。
会社をつくったのと同じくらいの時期に、のちに伴侶となるまゆちゃんと付き合い始める。付き合い始めと同時にいっしょに暮らし始め、というか私がまゆちゃんの家に転がり込むみたいな感じで付き合い、まゆちゃんは福岡市南区に住んでいたので福岡市と北九州市の2拠点ができたみたいな感じになった。5年の交際ののち、2018年4月1日に婚姻届を提出。ふだん嘘ばっかり言っているものだから、4月1日に結婚しましたと言っても4割くらいのひとに信じてもらえなかった。結婚指輪を見せても信じてもらえなくて、自分がいかに信用がないかを痛感。その後もふたり+ねこ1匹で楽しく過ごしています。
2023年には会社をつくって10年が経ち、その前にもコロナ禍とかがあって、このまま請負の仕事ばっかりやっててもねみたいな感じになって、自社で仕事を生み出していく方向にシフトチェンジ。白塗りのひととシタールを弾くおじさんと、君たちはもう知らないでしょうけど昔小学校には必ずと言っていいほどあったOHP、オーバーヘッドプロジェクターという機材を使って空間演出をするおじさんの3人を集めて舞踏作品を製作。あとは子ども向けにダンスと音楽の要素が詰まった演劇作品をつくったりする。そのほかにも、もうどうせ儲からないんなら好きなことやろうぜということで、北九州モノレールさんに企画を持ち込んだら「全部おもしろいですね」と言われて、結局それがなんかいろいろ転がって、小倉商業高校さんと産学連携プロジェクトみたいな形になったりして、まあなんかおもしろおかしく過ごしているけどお金はあんまり持ってないイケメン、それが俺です。
