車の歌(最終回)
坂のてっぺんに取り残されてしまった。しばらく茫然としていたが、寒さで歯がかちかち鳴り、身震いした。地図アプリで場所を確かめようとしたがスマホも充電切れだった。じっとしていても仕方がないので、和田は歩いて坂を下った。来た道を戻ろうか迷ったが、心が折れそうで、せめて前へ進もうと、先ほどFィットが消えて行った方へと歩いた。
一帯が巨大な新興住宅街のようで、真新しいおしゃれな戸建てが続いていた。等間隔にハルニレの植わった並木道が景観の美しさを演出した。田中、木村、伊藤、三浦、小林、村上、佐々木、田中、長谷川、岩下、内田、高山、野村、後藤、また田中……。和田は表札を一つ一つ口に出して歩いた。各戸、当たり前のようにマイカーが停まっていた。窓から漏れる明かりと楽しそうな声が、自身の境遇と対照的に映り、和田は卑屈になった。もうへとへとだ。ここに住んでる奴らは仕事がうまく行っており、それなりの女をつかまえ、結婚式を挙げ、子供達と家庭を築き、それなりに幸せなのだろう。俺もそれなりの幸せが欲しいだけなのだが、なぜこうもうまく行かないのか……。嗚呼、早く帰ってJブリが見たい。ていうかもう金曜ロードショー始まってんじゃん。Tトロで言うと、MいちゃんがTトロと出会った辺りか。ちくしょう、俺もTトロに会いたい。腹が減った。寒い。あったかい布団で眠りたい。僕も帰ろうお家へ帰ろう……。和田の思考は声帯を通して口からだだ漏れ、駅のホームでぶつぶつ言いながら架空の敵と戦っている、ちょっと近寄りがたいおじさんの様相を呈していた。
西川、吉田、宮本、近藤、高橋、安井、また田中……。登った分だけ下り坂も続いた。どれくらい歩いたのかもうよくわからなくなっていた。けっこう歩いた気もするし、まだ数分程度のような気もする。と、上の方から、ぽん、ぽん、と音がしたので振り向いた。赤いボールが跳ねながら転がってきた。たいしてスピードも出ていなかったので、難なく和田はキャッチした。坂の上を見ても誰もいない。当然、下にもいない。どこから転がって来たのかも不明だったが、こんな夜中にキャッチボールするでもなし、庭先に置いていた物が転がりでもしたのだろう。持って行くのも何なので、転がらないよう、街路樹の根元に固定し、再び坂を下った。近くで子供の笑い声がした、ような気がした。