さよならオブラージャ(第4回)
8
一月一日
初詣に行こうよ、と誘ったのだった。
年を跨ぐことに特別な感慨は無くなってしまった。しかし初詣は、特別感を演出するには打ってつけのイベントだ。
あれからすぐに、逢いたくなっていた。寒い冬空のもとで、春を感じているかのように心は浮ついていた。
午前八時過ぎ。炬燵で酔いつぶれていた俺は寒さで目覚めると、親父も同じように炬燵から切り株の根っこのように生えていた。前日の日本酒がまだ少し身体に残っていて頭が重い。仏間の押し入れから毛布を出してきて親父に掛けてやり、洗面所で顔を洗う。
台所へ向かう。水道から一晩中ポタポタと落ちる水滴。凍ってはいない。蛇口を捻り、コップに水を汲む。
台所の擦りガラスを通して表の眩しさに気づく。窓を開けると、外は雪で白く光っている。数センチの隙間を割り込んでくる寒風に身震いして直様窓を閉めた。キンキンに冷えた水道水を疲れた胃にゆっくり流し込むと、頭は冴え始めた。グラスを持ったまま居間へ戻ろうと振り返る。
台所は、隅々まで外光に照らされて明るい。三十年以上経つ、この古い家の、親父の生活に染まったこの食事処も、新年の清々しい光で清められたように思える。
春香の動画、ほの暗く湿度の高そうな、あの台所も清められただろうか。どうしてあんなに暗い台所に彼女は居続けるのか。どうしても暗く映ってしまうと嘆いていたが、何かしら遣り様はありそうなものだ。しかし、暗い台所に立ってこちらに話しかけてくる彼女は、雨の中の蕾のように力強く感じられた。田舎に住まうこの女性は、静かにそこに佇んでいる。これからも佇み続けていくのだろう。いつか来る春を待ちぼうけながら。季節は迎えに行くことが出来ないのだ。待って、待ち続けて、あのブラジャーのプリントのような花でも咲かせるというのか。
居間に戻って携帯を見る。春香から返事が届いていた。それは開かずに、まず娘に新年の挨拶を送信する。続いて妻へ。「今年もよろしく」
……いらぬ世話だ。春香がひっそりと春を待ち続けることに、俺が何か、手を差し伸べる必要はない。ただ、どうにかやり過ごしていくことで生活は廻っていく。
二日酔いを春香に告げると、近くまで迎えに来てくれることになった。
最寄りのコンビニエンスストアの軒先で煙草の吸い殻を灰皿に落とす頃、彼女は水色の軽自動車でやってきた。俺の目の前のスペースに駐車、俺が近づくなりウィンドウを2センチくらい開けて「隣町の神社に行ってみたいんだけど」と彼女は切り出した。親父に地元の八幡宮の御札を頼まれていたが、俺は参拝するのに何処だっていい。道中でまた昔話に花が咲くだろう。それもまた楽しい。「乗って」
助手席に乗り込み、膝の下を手探ってシートを後方に下げる。
「あ、ごめん、いつも母が乗ってるから狭いかも」
「勝手に調節して良かったかな?」腰を曲げた姿勢のまま下から彼女を覗き込む。
「動くよ」
バックする春香の顔が近い。
「いいよ」
「煙草臭っ」と吹き出して顔を背け、グッと上体を捻って、窮屈な体勢で後ろを確認する。
「同級生が店内に居るのよ」
「誰?」
「ちらっと見えた。とりあえず出るね」
そそくさと俺たちはコンビニの駐車場を後にした。