やよひ住宅(第1回)
2021.02.16
時生(ときお)は子供の頃、自分の小さなからだのなかで手が一番好きだった。手だけは大きかったからだ。小学生のとき、教室の足踏みオルガンの鍵盤でどこからどこまで届くか同級生の女子と比べっこした。時生はめいっぱい手を開いて、親指と小指でそれぞれ鍵盤の端っこを押さえた。指が裂けそうだった。放課後の教室は乾いた古い本みたいな匂いがした。オルガンには弱々しい日差しがあたっていて光の筋に浮かぶ埃は星屑のようで、天の川に似ていると思ったが、口には出さなかった。
「時生の手は大きいから、なんでもつかめるよ」
この町に住んでいた父は、時生の手を自分の掌にのせてそう言った。
父は年の割に髪に白いものが混じっていて、一年中長袖を着ていた。袖を少し折り曲げたシャツから出る腕には太い血管が浮き出ていた。子どもの目から見ても細い身体で、時生は幽霊と話しているような奇妙な気分になることがあった。奇妙ではあったが、父からはいつも日なたの匂いがしていて、怖くはなかった。
窓の向こうはいつも明るかった。
風の音がして小鳥が羽ばたき、時折オートバイが走っていく。父と差し向かいでカレーうどんを食べながら、時生はしばしば自分の左手を見た。この大きな手があればなんでもつかむことができる。ほしいものをこの手でつかめる。
はずだった。
大きな手をもてあましたまま時生は少年から青年になった。その成長の過程で馬鹿みたいに背が伸びて、手も特別なものではなくなった。
この町の缶詰工場に就職して七年になる。
鍵盤のどこからどこまで指が届いたのか時生はもう、思い出せない。