やよひ住宅(第2回)
忠之湯は夜十時で閉まる。
喜美枝(きみえ)は隣の母屋へ売上金の入った手提げ金庫を持っていった。
いつもは主の千恵が金庫を持ち帰り、喜美枝は戸締りをしてお風呂をもらって帰るのだが、今夜は足のリウマチが痛むらしく、休んでもらった。
金庫を渡すと、千恵はハンカチに包まれた小さなタッパーを持たせてくれた。
「きんぴらごぼうよ。喜美枝ちゃん好きでしょ。」
「いつもありがとうございます。」
一人暮らしを気遣ってか、千恵はよく手作りのお総菜を持たせてくれる。夜道を歩きながら包みを胸に抱えると、少しだけ寂しさが減った。
喜美枝が暮らすやよひ住宅は九棟からなる集合住宅だ。築六十年で風呂もついていない。喜美枝は客が帰ったあとの忠之湯でお風呂をもらう。大きな湯船に毎日ただで浸かれるので特に不便は感じない。その話を磯辺にしたら「それは本当にタダの湯ですね」と言って笑っていた。不便を感じないのは若いからこそだと喜美枝は思う。今は多少の不便は乗りこなせるが、老いてたとえば足腰が弱くなった身には日々の銭湯通いはつらいだろうし、すきま風も今の自分が感じる以上に堪えるのは想像にかたくない。先日も長いこと暮らしていた老夫婦が娘に説得されて引っ越していき、入居しているのは喜美枝の家を含めて二軒だけになった。
玄関の引き戸を開けたら、ねこぶがちょこんと座り、喜美枝を出迎えた。
「ただいま、ねこぶ。」
ねこぶは不思議な声で鳴いてどこかへ行った。ねこぶの声はかすれていて、ビブラートをきかせたように響く。ハチワレの老猫で家の中では背中の毛が真っ黒だが、日の当たる場所に出るとその毛は艶やかな昆布のような色をしている。元々やよひ住宅の周りをうろつくノラ猫で、目つきは悪く、よく喜美枝の家の軒下で毛繕いをしていた。おそらくだいぶ年寄りで、よく見るとやせ細っていた。見かねてみそしる用のにぼしをあげたらばりばり食べた。
手提げ袋を下ろしてきんぴらごぼうを座卓へ置いた。カリカリの餌を皿に入れたらねこぶはすぐにやってきて食べ始めた。脱衣所へ行き、ほとんど無意識に靴下を脱いで洗濯カゴへ放り込んだ。板張りの床は朝になると氷のように冷たいが、忠之湯で温もったおかげでさほど辛くはない。脚のむくみを確認し、手をごしごし洗う。蛇口の水垢が気になり、スポンジでごしごし擦って拭き上げた。きれいな蛇口を見ながら、帰り道、夜空に浮かぶ月が大きかったことを思い出して良い気分になったところで縁側のガラス戸を遠慮がちに叩く音がした。洗面台の鏡で軽く髪を整えて、喜美枝は縁側に向かった。疲れた顔をしているのは仕方ない。