やよひ住宅(第2回)
カーテンを開けたら隣の家の磯辺が眉を八の字にして笑っていた。困ってるのかそうでもないのかわからない。と思ったあとで、困る原因が思いつかないことに思い当たって喜美枝は少しほっとした。鍵をはずしてガラス戸を開ける。古い家で建物自体が歪んでいるせいか、戸は半分より少し先までしか開かない。
「おかえりなさい。」と磯辺は言って、ポケットから鍵を出した。
「車ありがとうございました。鍵を、」
喜美枝は座りながら磯辺を制した。
「まだ持っててください。時生くん帰るとき、駅まで送ってあげてください。」
「いつもすみません。」
「いいんです、私は免許もないし置いてるだけですから。乗ってもらえて、かえってありがたいです。」
いつの間にかねこぶが傍に寄ってきて、あの不思議な声で磯辺に何か言っている。
「うんうん、そうだな」と磯辺はねこぶに答えた。
「何を話してるんですか?」
「喜美枝さんにも早くご飯をあげてって。」
「またそんな。」
喜美枝は笑った。顔から疲れが消えていく気がした。
「カレー、たくさん作ったからどうぞ。」と磯辺は小さな鍋を差し出した。
「ちなみにうちは今夜、ライスじゃなくてうどんでした。息子が好きでいつも持ってくるんですよ、うどんを。」
「だからカレーうどん。」と言いながら喜美枝は鍋を受け取った。蓋の隙間から美味しい匂いがもれてくる。
「今日は自分がカレーを食べたくて。カレーうどんは便利なメニューです。」
「時生くんは今、」
「布団に寝ころんで漫画読んでましたけど、いつのまにか寝ました。」
忠之湯で会った時生を思い出すと顔がほころんだ。生真面目な顔で靴下を履いていた姿。
「時生くん、ひとりで髪も乾かして、ちゃんと靴下履いて帰ってましたよ。」
「湯冷めしないようにって、小さいころから母親がいつも履かせてたんです。まだかろうじて守ってるみたいで。」
磯辺は健やかに成長する時生のことをいつも喜んでいるように見えた。子どもと一緒に暮らせないなんらかの事情があるにせよ、本来はこういうひとに違いないのだと喜美枝は思わずにはいられなかった。
「今日は美味しいものをいただいてばかりです。」
「そうなんですか。」
「銭湯の千恵さんからきんぴらごぼうをいただきました。」
「いいですね。喜美枝さんはちょっと、なんというか・・・、いや、すいません。」
「なんですか。」
「いや、いいです。これ言ったら失礼になるかもしれないから。」
「なんですか。言ってください。」
「いや・・・顔色がね、いつもよくないんですよあんまり。」
「栄養が足りてない感じでしょうか。」
「足りてます?って、自分も鏡見ると似たようなもんだけど。」
磯辺は笑って、じゃあまた、と言うときびすを返した。
喜美枝の頭によし子のまるい顔が浮かんだ。