やよひ住宅(第2回)
「あの、磯辺さん、」
「はい。」
「もしよかったら、ですけど・・・、」
「なんでしょう?」
磯辺は笑顔で喜美枝と向かい合った。
「いつか、よし子と一緒に車に乗せてもらえませんか?」
「三人でドライブですか?」
「もちろん四人でも。時生くんも一緒に。動物園とか。」
「動物園。」
ソメイヨシノの枝に、葉っぱはまだない。
「ああ・・・まだ、寒いですね。じゃあ暖かくなって、ここの桜が咲くころ、動物園に。」
道路側の暗闇に目をこらすと、葉のない樹の影にビートルの白いボンネットがぼうっと浮かび上がって見えた。
「楽しそうですね。」
「楽しいですよ、きっと。私が運転できないもんだから、遊びにきたときあの子いつも不満そうで。あのまあるい目がこんな風に細くなるんですよ。」
喜美枝はよし子を真似て口をとがらせて目をきつねのように細くした。磯辺は声を出して笑った。
「再現できてます?」
磯辺はうなずきながら「百点です。」と言った。
「喜美枝さんの目と似てますね、よし子ちゃんの目は。」
喜美枝は一瞬、言葉に詰まった。
帰り道、煌々と輝いていた満月がいつの間にか雲に隠れている。
「・・・喜美枝さん?」
俯いた喜美枝の口から白い息とともに「磯辺さん、」と、小さな声がこぼれた。
「時々・・・、」
喜美江の視線は下駄をつっかけた磯辺の足もとをさまよった。
「時々、ですけど・・・」
言葉が上手く出てこない。
自分は、この人に何を言おうとしているのだろう。
「・・・、喜美枝さん、ゆっくり。そういう時も、あります。」
泣いている子どもをあやすような、穏やかで丸みを帯びた輪郭の声で磯辺は言った。
喜美枝の膝にねこぶが体を摺り寄せてくる。スカート越しにねこぶのほのかな体温が伝わった。
「時々・・・、深い長い夢の底にいるような気がすることがあります。最初はそこにいたのかなって思うんです。光が届かない深海のような、夢の底に。そこからほんの少しずつ浮かび上がるんです。いくつも層を刻みながら。今どのあたりにいるのかは自分にも誰にもわからない。神様はわかるのかもしれないけど、誰も神様じゃないからわからない。そのうち、頭上に風を感じるんです。それは命を終えるときなのかなって・・・思うんです。」
なぜ隣に住むだけの磯辺にこんな話をしてしまうのか。言い終えて喜美枝は戸惑った。
「・・・俺も、考えますよ。」
磯辺の下駄は動かない。喜美枝は顔を上げた。
「いつ終わるんだろうって、考えてしまう時があります。暗いところから一切合切離れていたいと思う自分と、暗闇の底まで降りてしまいたいと思う自分と、両方がせめぎあってるんです、いつも。」
磯辺はその背中に消したくても消せない記憶だけでなく夜の闇まで背負っているように見えた。そして自分も。
「だけど、」
磯辺はそう言うと、喜美枝に少し近づいて、ねこぶの頭を撫でた。
「時生とカレーうどんを食べたり、喜美枝さんたちと動物園へ行く計画を立てたり、そういうことのひとつひとつに、自分は守られている気がします。」
ねこぶがヒャアァァーと鳴いた。
雲が流れて月夜が戻った。
磯辺は微笑んでいた。
喜美枝は何度も小さく頷いた。ねこぶの背中を撫でて、カレーの鍋を抱えた。
「・・・、ありがとうございますカレー、いただきます。あと、いつでも、あの、お客さん帰るくらいの時間だったらいつでも、来てくださいね忠之湯。」
磯辺は「ありがとうございます。」と言って細長い身体を折り曲げ、頭を下げた。