やよひ住宅(第2回)
磯辺がやよひ住宅に引っ越してきたのは一年ほど前のことだ。今どき便利なアパートは他にいくらでもでもある。風呂なしの古ぼけた集合住宅をわざわざ選ぶなんて珍しいひとだと喜美枝は思ったが、良い面も確かにあって、ここは保証人もいらない上に敷金礼金も不要で家賃だって安い。それに、ひとりこの家で暮らしている自分だってたいがい珍しい類だということに思い当たって、喜美枝は少し可笑しくなった。
先月引っ越した老夫婦は出発前に菓子折を持って訪ねてきた。やよひ住宅が建ってすぐの頃から住み続けてきた、この住宅は自分たちの歩んだ歴史そのものだ、本当は引っ越したくない、と言って喜美枝の前で涙をにじませる老いた母親に向かって、ここで育ったはずの娘は「今時こんな不便で汚い貸し家に住むことないでしょ。去年入ったひともなんだか、ねぇ。言葉は丁寧なんだけど、それがよけいに気味悪くて。」と言い放った。「よしなさい」とたしなめる父親を気にも留めない様子で、娘はさらに言い立てた。「さっき挨拶行ったんですよ、えと、イソベさん?でしたっけ?そしたらなんか奥で着替えてるのがちらっと見えちゃって。あれ、入れ墨じゃないかな。たぶん背中全面。」
自分には彫り物がある。毎日じゃなくていいから他の客が帰ったあとで入らせてもらえないだろうかと相談されたのは、忠之湯の前で偶然会って、ここで働いていると話した翌日のことだった。喜美枝は千恵に相談し、閉める前、最後のお客さんでなら、ということになった。
磯辺が初めて忠之湯の暖簾をくぐった夜、番台に座っていた喜美枝はその背中から目をそらした。自分は穏やかな磯辺しか知らない。他の表情を持っているとしても、知っているのは穏やかな磯辺だけだ。それしかないし、それでいい。だいたい自分自身の全貌すらわからないのだ。自分が自分で思っているような人間、その一面体であるはすがない。
そらした視線の先に磯辺の脚が見えた。つるんとしたきれいな脚だった。自分の脚のようにむくんではいないし、百日紅の枝を思わせるような滑らかさを湛えていた。といっても見ただけで触れたことはないので実際どうなのかはわからない。