やよひ住宅(最終回)
夜の闇はもうそこまで来ていた。月明かりは弱すぎて、もはや「売物件」の文字も読めない。羽水さんの隣に立ったまま、俺は寒さに耐えていた。道路脇に止めたフォルクスワーゲン・ビートルが、迫る闇を拒むように白く浮かび上がって見えた。
羽水さんは「もう帰ったらどうですか。」と言った。「ここにいても寒いですよ。」そういう羽水さんは帰る様子がない。
「羽水さんも帰ったらどうですか。寒いでしょ。」
「わたしはもうちょっといます。・・・久しぶりに来れたから。」
「じゃあ羽水さん帰るまで俺もいますよ。だいぶ暗くなってきたし。変な奴とか、来るかもしれないし。」
羽水さんのため息がきこえた。細かな表情はもはや見えないけれど、そう嫌がられてはいないようだった。きっと寒さに対するため息で、俺に向けられたものではない。
羽水さんは少し横に移動したようだった。
「よかったら座りませんか。真横にひとりで立たれてると、居心地悪くて。」
「いいんですか。」
「よくなかったら言いませんよ。」
「ありがとうございます。」
俺は靴を履いたまま、お尻だけレジャーシートにのせて座った。羽水さんと同じ体育座りだ。羽水さんは斜め後ろに座っている。
「これ、よかったら膝にかけてください。」
振り向くと、マフラーが目の前にあった。羽水さんはコートの襟を立てていた。
「膝掛け、ひとつしかないんで。さすがに一緒にかけるには、あれなんで。」
「いやいや、寒いでしょ。そんな、いいですよ。そこそこ厚着してるんで。」
「気になるんですよ、わたしひとりだけぬくぬくしてるみたいで。」
「すいません。」
「タートルネック着てるから大丈夫です。ほら、掛けてください、寒いから。」
「いいんですか・・・?」
「よくなかったら言いませんから。」