やよひ住宅(最終回)
「そうなんですか・・・」と言ったきり、羽水さんは黙っていた。俺は、そのため息も吐息も聞き逃さないように、背中に意識を集中させた。けれど、羽水さんの表情だけはやはり、見えなかった。
「・・・たぶんきついだろうと思います。その、近づけないっていうのは。」
羽水さんはきっと頷いて、そして、俺の背中越しにもうヘッドライトなしでは見えない桜を見ている。花も葉もない春を待つ桜を。
「タイプ違っても一応想像力はあるんですよ。」と俺は言った。羽水さんは笑っただろうか。笑っていてほしい。振り向こうとした時、「きついです・・・。」と小さく聞こえた。
「きつかったです・・・近づきたいのに傍によれないって。だから近づかないでいたら、こんなんなっちゃってて。」
瓦礫の山だけになったやよひ住宅の跡地に、羽水さんの声がぼんやり響いた。
「ひと月くらい前から解体作業してました。羽水さん、一度見に来てましたよね。」
「・・・通ったんです、そしたらなんか、ブルドーザーが動いてて、家がバリバリ崩されてて、」
「思わず車、とめちゃったんですね。」
「はい・・・」
「俺の家、ここの近所なんですよ。通りの向かいの変な色のアパート。」
「あ、日の丸荘、って書いてある・・・」
「うん。てか、変な色って思ってんですね羽水さん。」
「いや、変ていうか変わった色ですよね。」
「新しい大家が塗り替えたんです。」
「すみません、変な色とか・・・」
「いいんですよ。俺は大家じゃないし変な色つったらすぐわかったでしょ。」
「残念ながら、わかった・・・。」
「だよね。知らない人にはアパートの名前言うより色の説明した方がわかるかも。」
その変な、けばけばしい色も、今は夜の闇に覆われて見えない。俺は笑いながら妙にほっとした。羽水さんも笑っていた。
「いつかこうなると思ってはいたけど・・・だから、避けられないから、いろいろ思い出すのがきつくて・・・できるだけ近づかないようにしてて、でも実際こう、更地になっちゃうと、もっとよく見とけばよかったって、思います・・・。」
「俺はだんだん朽ちていく様子も壊される様子も、毎日見てました。そういう、変化していく様を取りこぼさないように。父親がここにいたのは事実だから、変化してもそれは変わらないから。」
「・・・夏目さん、ねこぶみたい。」
「ねこぶ・・・」
父親がスケッチしていた変な名前の猫のことが頭をよぎったけれど、なんとなくそう聞こえただけで、羽水さんは別のことを言ったのかもしれない。
その時、横の道路をトラックが通った。強烈なヘッドライトがやよひ住宅跡地を一瞬照らして、去っていった。
一瞬の、確かな出来事。
やよひ住宅で父親と過ごした時間も、働いて飯食って毎日毎日生きている間に遠く過ぎ去っていった。
あの時間も一瞬、だったのかもしれない。
「羽水さん、動物好きですか?」
「は?」
「動物。」
「猫、好きですけど・・・」
「今度動物園行きませんか。暖かくなって、ここの桜が咲くころに。」
「え、ふたりで、ですか・・・?」
「はい。もしよければ羽水さんのビートルで。考えててください。」
斜め後ろの羽水さんは水筒の飲み物を一口飲んで、「あちっ。」と言った。