咀嚼伯爵(最終回)
よれよれのジャージ姿の先輩がビルの裏口から出て来るのが見えた。
こちらをみつけると一片のくもりもない笑顔がカットイン。
邪気なし。無邪気。
脳みそが筋肉で出来てる人間にしか出来ない笑顔だな、とか思った。
「どうだった?」
…何という自信か。
自分の手料理を食べる彼氏に向かって「おいしい?」と聞ける女くらい、満ちみちている。
まっすぐ答えたくない気持ちがうつうつと渦巻いた。
「全然意味がわかんなかったです。」
「まじ?」
「はい」
「そっかぁ。」
「はい」
「…なんか、いやだった?」
「え」
「……」
「……」
先輩はいきなり激しく頭をかきむしった。
「…そっかぁ。あーーーごめん…ごめん。」
「いや」
「ごめん」
「いや、意味わかんなかったって言っただけで、」
「え?」
「おもしれぇなぁ、とは思いました。」
「……」
「……はい。」
「それ、もっと詳しく聞いていい?」
ヒヒヒヒ~ン!
伯爵の馬が高らかにいなないた。気がした。
聞いてくれる?
聞かせてくれる?
とにかくね、何かガリガリと噛みたいと思ったよ。
食べものじゃなくてね、
この歯がガタガタになるくらい、いろんなものに噛み付いて、
咀嚼して、味わって、飲み込んでみたいと思ったよ。
時々は緑茶を飲んで、
甘い、辛い、すっぱい、エグい、そんなものをそそぎながら、
またまた噛みつき続けたいと思ったよ。
そしてそれを嚥下して栄養にして、ムキムキの、つやつやの、どっしりがっしりボディになりたいと思ったよ。
たとえそれでロバの入れ歯になってもいい。
なんて、
劇のセリフのリズムがまだ身体に残ってるから、そんな言葉を思ったよ。
「そうじゃろう。」
馬上で偉そうに背筋を伸ばした伯爵が、シャリンバイの硬い葉っぱの上でそうつぶやいた。
グッドラック姫君。
なんだそれ。
グッドラック、姫君!
なんだそれ。
なんだそれ、おもしれぇなぁ。