さよならオブラージャ(最終回)
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車のエンジンを掛けて車内をガンガンに温める。もうすぐ太陽はてっぺんまで登る時間だけど、フロントガラスの白い曇りはまだ消えない。
元旦は遅くまで布団から出ないのが我が家の習わしだ。それでも母はいつも通りに起きてくる。もちろん私も目覚めている。
運転する予定だから御屠蘇の盃にちょいと口を付けただけ。母にお雑煮を温めて出したところでユウキから「今起きた」の返信。昨晩、彼から初詣に誘われて、私はOKの返事をしていた。
新年早々、母をひとり家に残しておくのは気が引ける。でもさっきの返信を受け取ってすぐに、私は出かける準備を始めたのだった。
フロントガラスの霜は透明な氷のかたまりになって滑り降りていく。それを眺めながらサイドミラーを軽く拭う。よく見ると、助手席側のミラーの上部は、細かな傷に塗れている。離合するときに、生け垣か何かに擦って出来たものだろう。気になるような大きな傷ではない。水色のボディカラーではまったく目立たない。
……離合の際に、1ミリでも離れていれば、接触しない。そう私に言ったのは、ユウキだ。大学の同級生かサークルの仲間が言ったように記憶していたけれど、違う。二十歳の時、中学校の同窓会の二次会。5年ぶりに少しだけ話したユウキとの会話だったのだ。そうだ、思い出した。中学で付き合っていた頃は坊主頭だったのに、明るい色の長髪に変わっていたユウキ。別人のようだった。久々の再開が照れくさかったのか、他の友人たちとの会話で忙しかったのか、どうしてその時ユウキとあまり話さなかったのだろう。すっかり忘れてしまった。
愛車のように私にも、目には見えにくい引っ掻き傷がたくさん付いているのかな。
すれ違う人、私の横を通り過ぎて行く色んな人々と、私の身体は接触していなくても。小さな小さな傷が積み重なっていくのかな。むず痒くなって、下乳を掻く。
新年の朝、いまだノーブラの私。さて、着替えて出かける準備をしよう。
ここでまた、ずいぶんとお久しぶりの壁にぶつかった。ブラジャーを選ぶ。一番気に入っているワインレッドのを着けてみて、止めた。完全に私、抱かれることを期待してるじゃないの。これはいけない。どうでもいいような下着にしよう。男に見られたくないような……例えば、こんな和柄の、通販で色違い2枚セットで買ったものなんかがちょうどいい。上下揃ってなければなお良い。若い頃も気の進まないデートには同じ戦法をとっていたことを思い出す。ダサい下着で外に出ることは、心に鎧をまとう戦士となって戦地に向かう、みたいなことよ。これで、小手先の小さな愛に時間を盗られることはなくなるでしょう。